瞑想的時間を過ごすこと。

???????????????????????????????World Peace through Inner Peace (内なる平和から世界平和へ)
(画像は上記リンク先からお借りしました)

早いもので11月も終盤に。
先月のトルコでの自爆テロやその後のロシア旅客機の墜落、
そして今月、レバノン−パリと続いた自爆テロ。
中でも先週末のパリでのテロは、自分の毎日の生活にとても
近いところで起きた感覚があって、今までのどんなテロよりも
身近に感じたかもしれない。民間の人が撮っていた動画を
見れば見るほど身近に感じてしまう。

そして、パリに住む友人の無事をFacebookの
安否確認のサービスで知る。
そんな時代になったんだ。

一瞬でFacebookの友人たちの写真がトリコロールになった。
・・・と思ったら、すぐにトリコロール批判論まで飛び出した。
批判論を読みつつ「何がいけないのか」と思ったりしながら、
この出来事を俯瞰してみようとした時、思い出した。
そう、物事には必ず最低でも2つ以上の見方が存在することを。

Duality – 二極性

どちらかが良くてどちらかが悪いという結論は、
結果どちらかを排除しようという力学の作用からすると
対立は避けられない。どうしたらそこを越えられるのだろう。
そんなことをずっとじゃないけれど、
ぼちぼち考えている。答えはでないけれど、

・・・瞑想しよっ・・・

となる。自分の思考を休める練習として
わたしには大いに役立っている瞑想 – meditation。

「瞑想をしようと思ってもできない」

という話をよく耳にする。そしてよくわかる。
わたしもかつてはそう思っていたから。
ここ10年近く、いろんな形で瞑想に触れてきて
今のわたしが理解しているのは、

瞑想は「する」のではなく「起きる」ということ。

それがたとえ、たったの0.1秒の瞬間だったとしても、
瞑想は「起きる」。そして、その0.1秒のために、
自分とともに座る訓練でもあるんだ、と教えてくれた人がいる。

結果、わたしにとって瞑想は「自分を俯瞰する」ことに
とても役立っている気がする。このことが、あまり物事に
対して深刻に悩まなくなった一つのきっかけでもあると今は思える。
「深刻に悩まないこと」を目標に瞑想をはじめたわけではなく、
結果そうなった、と自分が感じられる、というだけのこと。

でも結果そうなった今、自分にとっての生活の質は、
ずいぶん変わったように思える。

12167634_1206170616076647_1752683638_n今週末は、いよいよシドさんによるワークショップだ。

1日目はきっとその「瞑想」に触れる時間が大いに取られるだろう。
あえて「絵を描かない」というアプローチを、わたしはシドさんに
リクエストしてきた。自分と瞑想を通して対話をすることをした上で、
絵を描いてみたい、と思ったからだ。シドさんは、二つ返事で快諾してくれた。

だから、初日の会場には画材は一切準備をしないことになっている。
海が目の前にある会場で、どんな瞑想的時間が作り出されるのだろうか、
今から本当に楽しみでならない。

そして2日目は、廃校になった小学校の体育館をお借りして、
存分に絵を描けるスペースを準備する。

自分との瞑想的対話の中に生まれたものを、絵にすることができる。
絵にすると、それを俯瞰できるのだ。
解釈をしよう、というわけではなく、ただ見ることができる。
描いていくプロセスにですら、様々な自分を垣間見る。

この一瞬一瞬が、どれだけ貴重で価値があるかは、
シドさんのワークショップに参加した人ならきっと知っているだろう。

先に書いた0.1秒のことを教えてくれたのも実はシドさんだ。

このワークショップの中で、
何が起きるかなんて、わたしの口から言えることではない。
ひとりひとりに起きることは、
それぞれ違っていて、
その人自身が目撃することになる。

(だからこのワークショップの紹介って
とてもわたしには難しいことなんですけどね。笑)

外側の世界が混沌としている中で、自分に在る、ということを
意図的に体感することが、今後を生き抜くヒントと糧になると
信じて、わたしはこの機会を創り続けたい、と思っている。

そして一人でも多くの人に体験してもらえたら、
と心から思っている。

12170153_1206170849409957_1540349089_n

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です